May 01, 2008

紀伊国屋ホール講演会『あべこべ感覚』ビデオ配信

去る2008年4月23日、東京は新宿紀伊国屋本店・紀伊国屋ホールに400名を集めて開催されたスマナサーラ長老講演会『あべこべ感覚』がyoutubeでビデオ配信されました。以下のリンク先からご覧ください。(計12本)

20080408155010

http://jp.youtube.com/user/samgha003

〜生きとしけるものが幸せでありますように〜

| | Comments (1) | TrackBack (0)

April 27, 2008

4月19日福岡講演「お釈迦様の教え~惑わされない生き方~」(Dhammacast)

「『お釈迦様の教え~惑わされない生き方~』」(64分12秒)をダウンロード

Img_2956

はじめての九州講演をポッドキャストで!

去る2008年4月19日、福岡市健康づくりセンターあいれふにて開催されたアルボムッレ・スマナサーラ長老講演会『お釈迦さまの教え~惑わされない生き方~』[講演概要]をDhammacastで配信いたします。

「心というのはけっこう弱いものです。どれくらい弱いかというと、ちょっとした音がしたくらいでも、ちょっと何かが目に入っただけで、心は変わってしまいます。それだけで、たいへんなことになったりしますよ。みんなすごいショックを受けたりして、精神的に病気になって、人生もダメになったりとかね。ちょっと見えたり、聞こえたりしただけなのに。それくらい、心というのはざわめくもので、弱いもので、何かやわらかい葉っぱを火であぶっているような感じなんです。これはお釈迦さまがそのとおり仰っているんです。それから、外から何か情報が入らなくても、我々の頭の中は「竜巻」状態ですね。竜巻はどこからともなく現われて、ものすごい破壊をするでしょう。我々の心では、つねにすごい竜巻が渦巻いているんです。この竜巻というのは、あれこれあれこれ考えたりすることです。その「考えること」というのは、まったく下らないんです。ほとんど事実無根なんです。……」(次回はQ&A編をお届けします。)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (2) | TrackBack (0)

April 16, 2008

“慈悲の瞑想”と死者供養/仏教の「無意識」批判

「“慈悲の瞑想”と死者供養/仏教の「無意識」批判」(26分27秒)をダウンロード

Sumanasaratheroatgotami

今回のDhammacastはゴータミー精舎での質疑応答より。法話メモは参考程度なので、ぜひ音声もお聴きください。

Q:死者に向けて「慈悲の瞑想」はできないのでしょうか?「慈悲の瞑想」と「供養」との差は何ですか?

A:瞑想とは自分の心を育てることです。供養は他者を助けてあげることです。「慈悲の瞑想」による功徳を他者に供養して与えることはできます。瞑想は自分の心を育てることだと覚えておいてください。これは「勉強すること」と「教えること」のようなものですね。

死んだ人に慈悲の冥想をしないのは、決して死者を軽んじているわけではないのです。「生きとし生けるものが幸せでありますように」という時には、死んだ人が生まれ変わったどこかの生命も含まれる。ちゃんと瞑想の対象に入っているんです。私たちが、死んだ人のことを思い出すと気持ち悪い、叶死感情が湧いてくる。必ず湧いてくる感情は悲しい感情なのです。

生きている人に慈悲の瞑想をする場合、たとえ悲しい感情が起きても「何とかしなくちゃ」となります。冥想中に怒りが湧いてきても、「この気持ちのままではマズイ。私は誰に対しても怒らないために瞑想するのではないか」と戒めて修行できるのです。死んだ人の場合はそれもできない。他にも理由がありますが、理解が難しいので説明はしません。とにかく、死者には功徳を回向すること。いま現在生きている生命には慈悲を実践することです。

Q長老は「無意識は存在しない」と仰ります。では、他人からの暗示で動くことはどう考えるべきでしょうか?

A:暗示といっても、思い出せないだけです。そのときも意志で行動しているのです。普通の意識状態ではないですが、普通って何でしょうか?無意識というのは一般的な考え方で、科学的な分析ではないのです。いま暗示状態ではないと言えますか? ほんとうは意志をコントロールできるのは修行した人だけです。他の人は、いつでも暗示かけられている状態なのです。そして、そのことに気づきもしない。気づく方法もないのです。この世界に生きている人は、自分の意志にしっかり責任を持てない危険な状態なのです。

しかし、無意識で「やらされている行動」ということはありえません。やっているその瞬間は、本人が自分の意志でやっているのです。だから現代社会で犯罪者を精神鑑定で無罪にしたとしても、仏教は決して無罪にしません。自分のやった行為の結果として業となるのです。業にはいいわけできない。「神の声」が聞こえたから殺したんだ、などと言う場合でも、犯人はちゃんと「弱い人」を選んで殺しているでしょう。前後の整合性がなくても、その瞬間は、意志でやらないといけないのです。

仏教で否定するのは二重構造の無意識です。寝ているときは意識がない。熟睡状態です。それも無意識といえば無意識です。そういう「無意識」なら反対しません。しかし、その無意識(アビダルマの有分心)も命を繋ぐはたらきは欠かさないのです。考えることが不可能なだけです。心の流れを一本にして考えるなら、無意識の概念にも反対ではありません。仏教は、意識の多重構造の考えには反対なのです。それは心の機能からしてあり得ない、不可能なことですから。

夢で人を殺しても「罪」なのです。人を殺したいという意欲がでてきて、概念で殺す。殺人の罪ではないが、そのときの怒り憎しみは本物です。はっきりしています。夢で犯す罪も罪なのです。仏教の人は、夢の中でも道徳判断して罪を犯さないのです。夢は無意識だから管理できないよ、という人に私は、「いま起きているあなたの意識も管理できないでしょう。妄想だらけで、あらゆるマインドコントロールを受けているんだから」と答えるのです。

(2008年3月20日ゴータミー精舎「ヴィパッサナー瞑想と法話の会」での質疑応答より 法話メモ:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 03, 2008

KY(空気読めない)の自分をどうすべきか?(Dhammacast)

「KY(空気読めない)の自分をどうべきか?」(54分37秒)をダウンロード

Dsc_0140 Q:瞑想実況をするときに、言葉にあわせて動いているような感じになってしまうのですが……。

命とは「感覚」のことです。感覚器官(六根)によって感じる波動が違うだけで、肉体に生まれているのは同じ「感覚」というシステムなのです。分析すれば単純なことです。ヴィパッサナー瞑想はその感覚というシステムの研究です。生きるとはシンプルなことである、と発見することなのです。

冥想は、決して気休めではなく、智慧を発見することなのです。「膨らむ、膨らむ」と先に言葉が出てもいいが、感覚をじーっと感じてみることです。感覚をキャッチすることです。実況中継によって、思考停止しないといけない。智慧が現れるように。思考があるとレベルが低いんです。智慧は「感覚の発見」から始まります。ですから、言葉が空回りにならないように。

実況中継で、言葉を先に言う人は間違いが多いんです。焦っているんですね、観念で。言葉が遅れて後になる人は、集中力はないけど、気づいたことを言葉にしている。それは事実です。先に言葉で言ってしまう人は、まだ現われていない、事実でない、観念に拠ってしまっているのです。感覚を感じることは欠かせません。

Q:幼い頃から、「もっと物事をよく考えるように」と言われたり、仕事の上司からも「もっと人の気持ちを考えて仕事するように」とか「空気を読め」とか言われます。どうしたら空気を読んだり、人の気持ちが分かるようになれるのでしょうか?

なぜ「空気読めない」かというと妄想しているから。妄想の時間で生きている。過去に生きているんです。何か考えていると、空気は読めません。心がずーっと過去に行っているのだから。過去は実在しないものです。ただ肉体が現在にあるだけで、心はどこか過去に行ってさまよっている。現在を生きる人、妄想しない人は能力が付きます。何も考えないで、ただ行動するのです。

雰囲気を読むのはすごく簡単です。犬猫でもできます。犬を飼ったことのある人はわかるでしょうが、犬はいつでも自分の気持ちにぴったりあってるんですね。なぜでしょうか? 犬はずっと飼い主の心を読んでいるんです。心を読んで、それに反応している。結局は「人間が犬に飼われている」だけです。対等じゃない。もし犬と対等になりたかったら、犬の気持ちを読まないと。人間が犬の気持ちを読んであげると、そのときはじめて、犬は自分のわがままを言うんです(それもまた厄介ですけどね)。

自分が犬を散歩すると解らないけど、他人が犬を散歩してるのを観察してみるとよくわかりますよ。犬は飼い主の表情や仕草を気づかれないように見ているんです。ですから、雰囲気を読むことは犬でもできます。

世間で「もっとよく考えなさい」と教えているのは、「正しく対応しなさい」という意味なんです。ゴチャゴチャ考えろ、という意味ではありません。「空気を読め」という場合は正しい教え方です。空気を読めない時は、頭が過去にある。過去にいるんです。過去にいる人にとって、現在はとてつもない大変なことです。未来はまだ現れてないのだから、当然わからない。ワンパターンならば推測できます。しかし事実はワンパターンではありません。将来は手に負えない。そこで、妄想してあえて過去に行っている。もう、お手上げ状態です。いまの、その時間に生きていないで、まだ過去にいるんですから。時間だけは減っていきます。これって、ルームランナーの上を走ってるようなものです。いくら頑張っても、走行距離はゼロです。くたくたになって結果なし。浪費、無駄です。

むかしは、人間と動物に差はなかったんです。いまを生きなかったら死にますから。いまこの獲物どう捕るか。それで能力開発したんです。いまのことばかり考えたから。でも、言語が出てきて考えるようになったら失敗ばかりです。神とか宗教とか、そういう下らない思考のお陰で、差別、嫉妬、憎しみ……一切の悪がでてきた。動物はまだ本来の能力を持っています。でも、人間は文明の発達とともに、気持ち悪い肉の塊になってしまった。ただ、道具のお陰で生きている。本人に何の能力もないシロモノになってしまったんです、考えることで。

いつでも、生きるためには、自分でもっている能力が必要です。人間の能力は退化してゆくんです。個人個人が生き延びないといけない。個人の能力が必要です。社会を開発すればするほど、人間の悩みは増えるんです。ちょっとしたことも解決できなくなります。現代人の生きる幅は極端に狭いから、人づきあいって言っても、ホンの数人とのことでしょ? それさえもうまくいかなくて困っているのだから。何人かとの人付き合いもできないようでは、生きる権利さえもないんです。

私たちは、生命として持つべき能力を失ってはいけない。たとえ、足一本なくなったとしても大丈夫です。でも、内蔵は大事にしないと。外面のことばかり気にして、すべてを司る脳細胞に無頓着でいる。それって、コンパスを大きな磁石に近づけたままで、方角を調べるようなものです。「現代文明」という地場で針がずれている。「生きる」というところからずれているのです。

瞑想とは、妄想をやめることです。過去に行きるなかれ、という実践です。ルームランナーの上を走っても、マラソンに参加したことにもならないのです。マラソンで最下位になっても、かっこ悪いことはない。でも、参加しないのはかっこ悪いです。心は過去に行って、肉体だけ置いてある。肉体はどんどん年をとる。時々、現在に戻ってもくたくたに疲れて何もできないんです。「年取りたくない」というのは、今を生きてないからです。今、やるべきことやって来なかったからです。だから、未練たらたらで死ななければいけなくなる。現在だったら、現在を生きていないといけない。状況が変わったからといって、困った困ったと悩むことはありません。仏道を歩むとその瞬間から、幸福になるのです。

自分に本来ついている能力を取り戻すことです。「落とし物」を拾ってほしい。自分が落としたものですから、自分で拾わないと。そうして、人間が達するべき境地、「解脱・悟り」までで到達することができるのです。人間のレベルを乗り越えることが瞑想です。

ただ「人間に戻った」だけでは修行の終わりではありません。人間を乗り越えるのが修行の完成です。過去は死体です。処分すべきものです。抱きたければ、生きている人を抱いてください。悪臭を放つ過去を抱くものではないのです。

(2008年3月20日ゴータミー精舎での法話より メモ文責:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (5) | TrackBack (0)

March 22, 2008

人間、生きるのは楽じゃない(Dhammacast)

Sumanasara

「人間、生きるのは楽じゃない」(67分40秒)をダウンロード

2008年3月8日に開催された「名古屋初期仏教デー」でのスマナサーラ長老のご法話を配信します。

人間、生きるの楽ではありません。生きるためには、能力が必要です。動物の社会だって、問題を解決しつつ生きているのです。

我々は、欲望がありすぎて、妄想ばかりで、自分の「能力の器」に穴を開けているのです。それで、これまで出来たこともできなくなる。持っていた能力もなくなって、人生の歯車が狂ってしまうことも珍しくありません。

時代に、社会情勢にあわせて新しい能力開発することは、生命にとって必要な能力です。能力があれば、なんとか生きてられます。「幸福祈願」をすることではなくて、「能力向上」をしなければいけません。仏教は、人の持っている能力とことん向上させる教えなのです。

俗世間で言っている、「能力開発」は仕事中心です。とても狭いのです。人間の向上はない。ただ身体の動かし方を習うだけです。仕事から離れたら役に立たない。だから、環境が変わると生きられなくなるのです。

ブッダは、人間としての能力の向上を説いています。「過去」と「将来」という妄想の迷路から抜けて、現在を生きなさい。これがブッダの説かれた第一のレッスンです。「いまの自分に気づく」ことが、能力向上の第一歩、智慧の開発の第一歩なのです。妄想を止めるために精進するのです。心を「いま」から逃がさないで、いまの瞬間に付けておくことです。……

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

※諸般の事情で配信が遅れたことをお詫びいたします。

| | Comments (3) | TrackBack (0)

February 22, 2008

聖者論(Dhammacast)

「聖者論」(20分54秒)をダウンロード

DSC_0268

・ワイドショー主義では聖者は見つからない。
・聖者は自分を売り込むことはしません。
・真剣に道を求める人が聖者と出会うのです。

(2008年1月24日ゴータミー精舎にて収録)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

[Dhammacast]ただいま聴ける法話リスト2

アルボムッレ・スマナサーラ長老の法話をMP3ファイルで公開!ポッドキャスティング“Dhammacast”の現在までの配信リストです。

Continue reading "[Dhammacast]ただいま聴ける法話リスト2"

| | Comments (1) | TrackBack (0)

February 15, 2008

中有(中陰)はあるのか?三明と六通・他

「中有(中陰)はあるのか?三明と六通・他」(28分42秒)をダウンロード

Sumanasara_kyoto 1)北伝仏教で「輪廻の中間地点」として説かれる「中有・中陰」について、テーラワーダ仏教の立場から解説を加える。

2)三明(宿命智・天眼智・漏尽智)と六通(神通力)について、修行との関係でどのように考えるべきかを詳述する。「超能力体験」を求める心の弱みと危険性を理解するために必聴。

3)慈悲の冥想と「対象のイメージ」について。

(2008年1月24日ゴータミー精舎「上座仏教教室」での質疑応答より)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 06, 2008

「欲」と「意欲」とはどう違う?・他

「「欲」と「意欲」とはどう違う?・他」(33分16秒)をダウンロード

Dsc_0194 1月19日名古屋初期仏教デーにおける、スマナサーラ長老と参加者の質疑応答を3回に分けて配信します。(その3)

・「輪廻」とは、どう理解すればいいのでしょうか?
・「欲」と「意欲」とはどう違うのでしょうか?
・慈悲の冥想をしていると時々、「他人を見下ろす」ような気分になってしまうのですが……。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (1) | TrackBack (0)

January 30, 2008

ブッダと論理の微妙な関係・他

「ブッダと論理の微妙な関係・他」(31分31秒)をダウンロード

Dsc_8274 1月19日名古屋初期仏教デーにおける、スマナサーラ長老と参加者の質疑応答を3回に分けて配信します。(その2)

◆『ブッダと龍樹の論理学』(石飛道子)をめぐって……。

「ブッダの教えは真理だから「論理的」です。しかしブッダは「論理学」を否定しました。純粋論理は私たちの実存から離れてゆくのです。龍樹の大失敗はそこにありました。龍樹の世界で「悟り」がなくなったのです。「真理は論理的ですが、論理は真理ではありません」ということを覚えておいてください。ブッダの教えはたまたま厳密に論理的になってしまったのです。仰ったことが永遠不滅の事実だからです。どんな時代にも古くならない、本当の事実なのです。他の宗教の教えと比べてください。他宗教では、はじめから終わりまで教えが崩れています。しっかり物事を知り尽くして語ると、論理的になるのです。ですから仏教は論理的です。しかし論理は仏教ではありません。

でも、皆さんもやっぱり理性を育てないといけない。例えば信仰、感情、好み、怯えなどが割り込むと、物事の判断ができなくなるのです。我々の判断能力をにぶらせる信仰、感情、好み、怯えなどに捉われてはならないのです。我々は理性をもって自分の人生を判断できるように、理性を育てるのです。ヴィパッサナー冥想をすると理性がどんどん育ってきます。理性の目でみると、摩訶不思議に論理的になります。しかし論理を前に出さないこと。論理は抽象的。実存的ではないのです。数学的に、1を3で割るようなもので、もう終わりがなくなるのです。それは抽象的で。でも実際には、割れます。

ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道
石飛 道子
サンガ (2007/09)
売り上げランキング: 14751

◆なぜ「魂」という「錯覚」が起こるのか?

五蘊無我の教えは、他に「魂」を想定したものではありません。永遠不滅の魂、という錯覚は、我々の認識のからくりによって生み出されるのです。云々。

(法話メモ:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 26, 2008

『無常の見方』の落とし穴・他

Sumanasara

「『無常の見方』の落とし穴・他」(29分16秒)をダウンロード

1月19日名古屋初期仏教デーでの、スマナサーラ長老と参加者の質疑応答を3回に分けて配信します。(その1)

◆『無常の見方』の落とし穴

冥想をしていると、「すべて無常だ」と見えてくることはあります。何でも無常だと見えてくるとたいへん落ち着いてきます。しかし「無常」を発見していくことにも、多くの段階があるのです。だから皆「無常だ」というけれど、それが悟りではないのです。

顕微鏡の倍率をどんどん上げていくようなものです。あげてもあげても見えるのは無常なのです。しかしレベルは違いますね。……無常を発見して悟りに達するという結果があるのです。結果が出るところまで、無常を見るレベルを上げていかないといけない。冥想する人は、その辺を手をぬいて、修行が終わったことにしたがるのです。指導者は、それを厳しく戒めることが仕事なのです。

自分の体験を至高のものと勘違いすると、途中で修行を放棄しようとする危険も起るのです。自分の体験への執着は「傲慢」のはたらきです。「実況中継」「気づき」は集中力を高めて妄想が入り込まないようにするための、修行の命綱、ガイドラインなのです。実況なんかしなくてもいいんじゃないか、というのはちょっと甘い話なのです。(命綱を離すとたくみに妄想が入り込んできます)

……冥想の途上では、「無常、無常」という言葉さえもこころが怠けるための妄想になる恐れがあります。現象をきめ細かく分別することなく、まとめて処理しようという怠けの気分が出てくるのです。「無常」という見方は、執着が消えてゆく方向に進まなければならないのです。頭でっかちは意味がない。むしろ徹底した執着になります。無執着になっていく、ものに捉われなくなっていく。その方向性ならOKなのです。

こころのプロセスは複雜です。我々が見たり聞いたりする感じたりすると(認識すると)、3種類の執着・とらわれが生れます。とらわれ方は、欲、怒り、無視(無知)の三種類ですね。だから煩悩が三つというのです。欲も怒りもとらわれ、執着です。では「無視すること」がなぜ執着なのでしょうか? 無視する人は外の見るもの聞くものに興味がないのです。その代わりに、こころのなかの怠けに、自我意識に執着しているのです。これが一番たちが悪い執着です。冥想して、「無常だ」と言っているときにも、「執着がない」からではなく、怠けに、自我意識に執着する、「無視しちゃおう」という傾向が出てきてしまうのです。これはたいへん危険なことです。

ものを認識すると、三種類の執着が生れてくる。……対象があってこころがあって認識すると、間に強烈なボンドのような粘着機能が入っているのです。粘着力があるから対象と認識が強く結びついて離れなくなるのです。その間でサティを入れるのです、実況中継で。粘着力がどんどんなくなるために。最終的にすべて無常だとなると、粘着がなくなってしまう。そこで無執着という悟りのこころが生れているのです。だから、自分の粘着力はいまどの程度かと見ていったほうがいいのです。時には粘着機能が起きたり、なくなったり、いろいろです。粘着機能を切って、切って、「これからはもう粘着はないんだぞ」というところが悟りの境地なのです。

◆慈悲の冥想

慈悲の冥想は、大人の人格をつくるための方法です。

◆「しっかりした人間」にはどうすればなれるか?

我々は誰でもしっかりした人間ではないのです。誰もがみじめでだらしない。理由は自分の心の中で妄想が渦巻いて竜巻を起しているからです。妄想の世界は現実とまったく関係ない。現実と関係ない妄想をして、妄想が決めたように現実に対応することは話にならないのです。

私が誰かのことを勝手に「鬼だ!」とおもう。その人を鬼と思って怯えたり、鬼を退治しようとしたら病院に入れられるだけでしょう。

妄想がなければおのずとしっかりした人間です。ヴィパッサナー冥想はその道なのです。決して「しっかりした人間になってやるぞ」と思う必要はない。それは妄想です。ただヴィパッサナー冥想を続ければ、自分が気付かないうちに、しっかりした人間になっているのです。

わざわざしっかりした人間になると思わなくてもいいのです。なれます!

(法話メモ:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 17, 2008

悟りと性格

「悟りと性格」(28分23秒)をダウンロード

撮影:出村佳子

今週のDhammacastは、性格分析の仏教的活用法の第2弾。仏教では性格を「煩悩(心の汚れ)と捉えます。自分の性格をうまく利用して、汚れのない無色透明のこころを育てる秘訣とは?(2008年1月6日ゴータミー精舎で収録)

「……悟りに達した人は誰とも群れません。四段階で悟りに達する。我がつぶれること、無明がつぶれて智慧が現れるのは四段階。それまではうすうすと「自分」という感覚がある。自我が完全になくなれば、群がることもなくなるのです。

 悟りに達してもふつうに人々と話して生活します。それで差が出てくるが、些細なことにすぎないのです。肉体によって住める環境も住めない環境もある。それが性格というわけではない。

 悟った人の場合、仏教では、お釈迦さまの教えを聞いて阿羅漢に達してた聖者でも、煩悩も自我も消えてなお、いままでのクセが残ると言っています。この微妙なクセが、我々からは性格として見えてしまう。もともとそば好きの人が、クセでそばを食べ続けても問題ない。クセというのはそれが社会に迷惑かどうかで考えればいい。何でも勝手に判断してあれ直せ、これ直せということない。違うところは有効に使うことにしておけば。

 たとえば夜起きているクセが付いている。だからって困る必要ない。夜の仕事を選べば楽でしょう。その人のいる国で、夜仕事がない場合は問題。それだったら、夜寝るように苦労して自分の性格、クセを直す必要がでてくるのです。断言的にはいえません。

撮影:出村佳子  アーナンダ尊者の素晴らしい説法を紹介します。

 アーナンダ尊者はすごい記憶力の方でした。お釈迦さまの言葉を完璧に覚えているので、あちこちで説法を頼まれました。彼は、美しい言葉で見事にお釈迦様の言葉を伝えるのです。身体を見てもたいへんな美男でした。そこで問題が起るんですね。ある尼さんが、恋に落ちてしまったのです。出家だから、それはダメです。でもどうしようもなくて、彼女は仮病になった。「病気だからアーナンダ尊者の説法を聞きたい」と頼まれた尊者は、彼女の部屋に見舞いに行きました。彼女は頭から布団をかぶって寝ている。アーナンダ尊者は彼女が何の病気かわかったのです。尊者はなんのことなく、「妹さん、これから説法しますからそのまま聞いてください」と。彼女も尊者がすぐ近くに居るから気分よく、ジーッと寝ていたのです。
 お釈迦さまはこう仰っています。煩悩というのは見方があるのです。たとえば強烈なプライドのある人がいる。そのプライドは放っておきましょう。わざわざプライドを壊すために何かするのではなくて、傲慢でプライドがあるなら、上手く使いましょう。プライドの病気で悩んでいる仏弟子はこう思うのいです。こちらのお坊さんは出家して、一ヶ月間で悟りに達した。あのお坊さんも、私と一緒に出家したお坊さんも、私の後で出家したお坊さんも、みな悟りに達している。恥ずかしい。よし、今日のうちにでも悟ってやろうではないか、と。そうやってプライドを使ってください。
 怒りの強い人がいる。何があっても怒る性格です。それでかまいません。とことん怒って、自分の情けなさに、自分のだらしなさに、自分の未熟さに怒りなさい。こんな煩悩だらけで未熟で、とんでもないと。それで自分の煩悩に対してとことん怒って、煩悩のない人間になったらいかがでしょう、と。
 そうやって順番で説かれたのです。これは性格を上手く使う方法です。性格を直そうとするのではなく、自分の性格をもって、とことん成功する道です。成功したところで、元の性格がぜんぶつぶれてしまう。プライドも怒りも消えている。しかし、妹さん、性欲だけはその場で絶つものである、とお釈迦さまは仰っています。性欲は、その場で人の人格を凡て燃やしてしまう恐ろしいものであると。アーナンダ尊者は、説法ですから本来の順番を変えて、最後のその項目を入れて、性欲だけは最初から根こそぎ捨てるものであると強調したのです。性欲だけは、人格向上のためにどうにか使うということはできません。
 この話を聞いていた尼さんは、やっぱりそうだ、と思うしかない。それで、頭おかしくなる恋の病気は治ってしまった。
 アーナンダ尊者が語ったけれど、これはブッダの教えです。
 チベット仏教やらで間違って使っています。性欲も素晴らしいことであると言ったりして。でも、冗談ではないのです。性欲に支配されると、人間の品格がなくなって、頭のレベルが下がるのです。
 それはおいておいて、

 完全な悟りに達するまでは個人差があります。個人差、性格、いろいろです。九つに分けるどころではない。個人差といえば、これはずうっとあります。はっきり言えば個人差も性格の一部です。個人差を消すこと出来ません。しかし個人差ですが、すごく怒りっぽいなら、ちょっと考えるべき性格になる、ものすごく欲張りだったら、その人の性格でもそこまで許すのかと。たとえば「青い服が好き」というのも性格でしょう、それを直す必要ある? ないんです。本人がそれで大変な問題を起してしまうなら、直すということで。

 個人差もあれば、性格もある。仏教は煩悩という心の汚れという言葉で、性格分析をするのです。こころの汚れの分析なのです。その場合、当然それは直して、汚れのない無色透明の性格にする。

 ご自身が無色透明だったからこそ、お釈迦さまには説法ができたのです。この頭の悪い迷信だらけの人間に、誰も発見していない超越した真理をよく語ったのですから。……」(法話メモ:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 09, 2008

性格分析の仏教的活用法

「性格分析の仏教的活用法」(38分05秒)をダウンロード

Sumanasaratheroatgotamiタイ佛紀2552年(西暦2007年、平成20年)最初のDhammacast(ダンマキャスト)をお届けします。

この世の中にある凡ての哲学・宗教・知識は「生きることを正当化する」という根本的な誤りを土台にして成り立っています。だから最初から矛盾だらけです。現代社会で人気の「性格分析」も同じこと。しかし、それを仏教的に活用することもできます。性格というキーワードから、「解脱への道」を指し示すことも可能なのです。

(2008年1月6日ゴータミー精舎で収録)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 24, 2007

『神の不在』と道徳の根拠

「『神の不在』と道徳の根拠」(39分29秒)をダウンロード

A. Sumanasara thero. Photo by Harumi Aida

今年の八月、カトリック教会の福者である故マザー・テレサの書簡が公開されました。その中で彼女が長い間「神の不在」に悩んでいたことが明らかになり、世界に大きな衝撃を与えました。

この出来事について質問を受けたスマナサーラ長老は、生涯を他の幸福のために尽くした彼女の冥福を願いつつ、「神の不在」と道徳の根拠について、法話をしてくださいました。

(2007年12月20日 千駄ヶ谷区民会館「上座仏教教室」にて収録)

本編がことし最後のDhammacastとなります。
皆様よい年をお迎えください。

~生きとし生けるものがしあわせでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 14, 2007

長老の問い「なぜ渇愛が生れるのか?」

「なぜ渇愛が生れるのか?」(34分49秒)をダウンロード

Dsc_0040

久々のDhammacastは録って出しの上座仏教教室Q&Aより。

「では、質問します、私から。
 なぜ人々に渇愛が生れるのでしょうか?」

スマナサーラ長老からの質問に、参加者が果敢に答えます。さあ、皆さんも一緒に考えてみてください。
(2007年12月13日 千駄ヶ谷区民会館にて収録)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 09, 2007

仏になるための仏教講座 Vol.1

今日は北伝仏教の成道会。

若手の僧侶を中心として運営されている、超宗派仏教徒によるインターネット寺院「虚空山 彼岸寺」主催の講演会、『仏になるための仏教講座』 Vol.1「いま生きるためのブッダの智慧」にA.スマナサーラ長老が出講されました。

1208_1

会場は神谷町の浄土真宗梅上山光明寺。本堂から見上げると東京タワーがすっくとそびえるビューポイント。本堂前は寺カフェ・神谷町オープンテラスとしても開放されています。写真は光明寺墓苑(東京タワー側)から見た光明寺の全景。

1208_2

光明寺の境内に入ったとたん、たくさんのボランティアスタッフが丁寧にお掃除している様子がすごく印象に残りました。写真は本堂での受付の様子です。協会から参加した方のご協力で関連書籍の販売もさせていただきました。

1208_3

光明寺本堂で講演されるスマナサーラ長老。「手形仏教と現金仏教」というテーマでお話されましたが、受講者からはとても鋭い質問もされて、成道会に相応しい、たいへん充実した講演になったと思います。質疑応答の後、成道会の短い法要が営まれ、オープンテラスでお茶を飲みながら1時間ほどの懇親会も開かれました。スマナサーラ長老は受講者の皆さんから質問攻めにあっていました。

講演の模様は彼岸寺のポッドキャストでも配信されるそうです。お聞きのがしなく!

最後に、素晴らしい会を主催してくださった彼岸寺の皆様、どうもありがとうございました。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 14, 2007

瞑想指導(2)日常ヴィパッサナー『目覚めへの招待』

「瞑想指導(2)日常ヴィパッサナー『目覚めへの招待』」(64分47秒)をダウンロード

撮影:相田晴美 9月15日に代々木オリンピック記念青少年総合センターで開催された2007年度 初期仏教(テーラワーダ)一日体験会(講演と冥想会)当日のスマナサーラ長老講演『目覚めへの招待』と質疑応答のあと、休憩を挟んで行われた瞑想指導(慈悲の瞑想と日常ヴィパッサナー実践)の模様を2回に分けてお届けします。

後編は、『ヴィパッサナー瞑想』の講義。日常でできる“気づきの実践”についてのお話がメインとなりました。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 07, 2007

瞑想指導(1)慈悲の瞑想『目覚めへの招待』

「瞑想指導(1)慈悲の瞑想『目覚めへの招待』」(53分00秒)をダウンロード

撮影:相田晴美 9月15日に代々木オリンピック記念青少年総合センターで開催された2007年度 初期仏教(テーラワーダ)一日体験会(講演と冥想会)当日のスマナサーラ長老講演『目覚めへの招待』と質疑応答のあと、休憩を挟んで行われた瞑想指導(慈悲の瞑想と日常ヴィパッサナー実践)の模様を2回に分けてお届けします。

前編は、『慈悲の瞑想』の指導です。三宝に帰依するための偈文の読誦からはじまります……。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 01, 2007

名古屋初期仏教デーQ&A(3)

「名古屋初期仏教デーQ&A(3)」(31分32秒)をダウンロード 

Sumanasara32007年10月14日、名古屋市笠寺の日本ガイシフォーラムにスマナサーラ長老をお迎えして開催された『名古屋初期仏教デー』での質疑応答より。三回に分けて配信します。(その3)

Q:以前長老は、日本には約1500年前に仏教が伝わって、料理を盛る器(仏教の形式)は来たけれど、現代になってようやく、その器に盛る料理(本当のブッダの教え)が届いたのだ、ということを仰っておられました。その喩えについてもう少し詳しくお話下さい。

Q:さきほど神秘主義についての質問がありました。私は仏教の勉強をはじめたばかりですが、輪廻転生や梵天勧請といった、自分の常識からは不思議なことが経典に書かれていて、戸惑うことがあります。それはどのように理解すればいいのでしょうか?

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 25, 2007

名古屋初期仏教デーQ&A(2)

「名古屋初期仏教デーQ&A(2)」(33分38秒)をダウンロード 

Sumanasara2 2007年10月14日、名古屋市笠寺の日本ガイシフォーラムにスマナサーラ長老をお迎えして開催された『名古屋初期仏教デー』での質疑応答より。三回に分けて配信します。(その2)

(承前)神秘主義についての質問に答えて……「神秘主義の定義って何でしょうか? つまり脳がつくる幻覚をホントだと思うと神秘主義です。幻覚を幻覚だと思うならば、リアリズムになるんです。しかし自分の五感で知られることだけが事実と言うことはできません。認識のバンドは修行によって広げることが可能です。しかし、気をつけないと頭が来るって病院で人生を終えるはめになりますよ。ただの幻覚と、超越した認識の区別能力が必要になるんです。」

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 18, 2007

名古屋初期仏教デーQ&A(1)

「名古屋初期仏教デーQ&A(1)」(25分37秒)をダウンロード

Sumanasara 2007年10月14日、名古屋市笠寺の日本ガイシフォーラムにスマナサーラ長老をお迎えして開催された『名古屋初期仏教デー』での質疑応答より。三回に分けて配信します。(その1)

Q:植物は生命なのですか? 植物に対しても「慈悲の瞑想」をすべきですか? 植物も輪廻するのですか?

Q:スマナサーラ長老の仏教の解説はとてもわかりやすいです。しかし、ものたりなさも感じます。それは宗教にある神秘性を否定しているように見えるからです。たとえばシンクロニシティのような現象をブッダはどう説明するのでしょうか?(次回に続く)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 03, 2007

質疑応答2(後編)『目覚めへの招待 Q&A』

「質疑応答2(後編)『目覚めへの招待 Q&A』」(47分01秒)をダウンロード

Dsc_2707

9月15日に代々木オリンピック記念青少年総合センターで開催された2007年度 初期仏教(テーラワーダ)一日体験会(講演と冥想会)。当日のスマナサーラ長老講演『目覚めへの招待』の後、1時間半にわたって交わされた会場との質疑応答の模様を2回に分けて公開。2(後編)の質疑の内容は……

Q:人は社会で生きるために概念のお城を作っていかなければいけない(講演『目覚めへの招待』参照)。では、役に立つ概念をうまく身につけて、美しいお城を効果的に立てるにはどうすればいいのでしょうか?

Q:仏教では「実体がない」「無自性」と言っているのに、どうすれば「ありのままに見る」ことが可能なのか?

Q:酒・ドラッグにはまった友人にどう対処すればいいでしょうか?

Q:長老の仰る“目覚め”“悟り”はどれくらい大変なのですか?結果はすぐに出るのですか?それとも宝くじに当たるよりマレな確立でしか悟れないのですか?

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 26, 2007

質疑応答1(前編)『目覚めへの招待 Q&A』

「質疑応答1(前編)『目覚めへの招待 Q&A』」(38分59秒)をダウンロード

Dsc_2744

9月15日に代々木オリンピック記念青少年総合センターで開催された2007年度 初期仏教(テーラワーダ)一日体験会(講演と冥想会)当日のスマナサーラ長老講演『目覚めへの招待』の後、1時間半にわたって交わされた会場との質疑応答の模様を2回に分けて公開いたします。1(前半)の質疑の内容は……

Q:人は「教える」「教わる」関係で怒りが出てきてしまう。どう考えればいいでしょうか?(教えるという特別な技術について)

Q:先端科学のニュートリノ論を聞くと、これって仏教かなぁと思ったのですが?(仏教と科学の違いについて)

Q:私は神様を信じているカトリック信者。でも仏教を学んで実践することはできますか?(スマナサーラ長老とキリスト教徒、イスラム教徒との対話をめぐって)

Q:「今に生きる」ってどういうことでしょうか?(実践のイントロダクション)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 17, 2007

講演2(後編)『目覚めへの招待 あなたはまだ眠っている』

「講演2(後編)『目覚めへの招待 あなたはまだ眠っている』」(34分53秒)をダウンロード

Dsc_2697

講演1(前編)はこちら

講演会スライド資料(PDFファイル)はこちら

去る9月15日に代々木オリンピック記念青少年総合センターにて開催された2007年度 初期仏教(テーラワーダ)一日体験会(講演と冥想会)は大盛況のうちに閉会いたしました。久々のDhammacastでは、当日のスマナサーラ長老講演『目覚めへの招待』を前後編に分けてお届けします。講演のあとの質疑応答や瞑想指導(日常ヴィパッサナー編)も追って配信いたします。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

講演1(前編)『目覚めへの招待 あなたはまだ眠っている』

「講演1(前編)『目覚めへの招待 あなたはまだ眠っている』」(39分26秒)をダウンロード 

Dsc_2743

講演1(後編)はこちら

去る9月15日に代々木オリンピック記念青少年総合センターにて開催された2007年度 初期仏教(テーラワーダ)一日体験会(講演と冥想会)は大盛況のうちに閉会いたしました。久々のDhammacastでは、当日のスマナサーラ長老講演『目覚めへの招待』を前後編に分けてお届けします。講演のあとの質疑応答や瞑想指導(日常ヴィパッサナー編)も追って配信いたします。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 25, 2007

仏教の堕落と再生/ほんとうの慈悲

「仏教の堕落と再生/ほんとうの慈悲」(25分25秒)をダウンロード

Dsc_0054
アルボムッレ・スマナサーラ長老の法話ポッドキャスティングです。

(2007年7月14日 名古屋市日本ガイシフォーラムにて収録)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (2) | TrackBack (0)

August 04, 2007

こころ問答

「こころ問答」(58分34秒)をダウンロード

Sumanasara

アルボムッレ・スマナサーラ長老の法話ポッドキャスティングです。

“こころ”とは何ですか?
生きていることが“こころ”です。
知ることが“こころ”です。


しかし、我々はありのままに知るのではなくて、自分が希望するように、あって欲しいように知るのです。ありのままに知ることはできないのです。

生きていることは「知ること」です。こころとは、知ることです。しかし、知ることは「誤知(誤った知)」なのです。知ることは「誤知」であって、修行しない限りは、「正知(正しい知)」にはなりません。永久的に誤知のままでいなくてはならないのです。

瞑想とは「誤知」を「正知」にすることです。誤知を破って、ほんとうの真理を発見するのです。地動説を唱えたガリレオさんのように。我々がウソを知っているから(誤知だから)、煩悩があるのです。欲や怒り、憎しみ、嫉妬が起こるのです。誤知が正知になったら煩悩が生まれるはずもないのです。……

(2007年7月14日 名古屋市日本ガイシフォーラムにて収録)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 28, 2007

[Dhamma]「見た目で判断」の落とし穴

「『見た目で判断』の落とし穴」(33分39秒)をダウンロード

Dsc_0076

アルボムッレ・スマナサーラ長老の法話ポッドキャストです。

「現代人は見た目を飾るために金を払うと同時に、自分の「生きる能力」まで払って(捨てて)しまっているのです……」

(2007年7月14日 名古屋市日本ガイシフォーラムにて収録)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

|