April 03, 2008

KY(空気読めない)の自分をどうすべきか?(Dhammacast)

「KY(空気読めない)の自分をどうべきか?」(54分37秒)をダウンロード

Dsc_0140 Q:瞑想実況をするときに、言葉にあわせて動いているような感じになってしまうのですが……。

命とは「感覚」のことです。感覚器官(六根)によって感じる波動が違うだけで、肉体に生まれているのは同じ「感覚」というシステムなのです。分析すれば単純なことです。ヴィパッサナー瞑想はその感覚というシステムの研究です。生きるとはシンプルなことである、と発見することなのです。

冥想は、決して気休めではなく、智慧を発見することなのです。「膨らむ、膨らむ」と先に言葉が出てもいいが、感覚をじーっと感じてみることです。感覚をキャッチすることです。実況中継によって、思考停止しないといけない。智慧が現れるように。思考があるとレベルが低いんです。智慧は「感覚の発見」から始まります。ですから、言葉が空回りにならないように。

実況中継で、言葉を先に言う人は間違いが多いんです。焦っているんですね、観念で。言葉が遅れて後になる人は、集中力はないけど、気づいたことを言葉にしている。それは事実です。先に言葉で言ってしまう人は、まだ現われていない、事実でない、観念に拠ってしまっているのです。感覚を感じることは欠かせません。

Q:幼い頃から、「もっと物事をよく考えるように」と言われたり、仕事の上司からも「もっと人の気持ちを考えて仕事するように」とか「空気を読め」とか言われます。どうしたら空気を読んだり、人の気持ちが分かるようになれるのでしょうか?

なぜ「空気読めない」かというと妄想しているから。妄想の時間で生きている。過去に生きているんです。何か考えていると、空気は読めません。心がずーっと過去に行っているのだから。過去は実在しないものです。ただ肉体が現在にあるだけで、心はどこか過去に行ってさまよっている。現在を生きる人、妄想しない人は能力が付きます。何も考えないで、ただ行動するのです。

雰囲気を読むのはすごく簡単です。犬猫でもできます。犬を飼ったことのある人はわかるでしょうが、犬はいつでも自分の気持ちにぴったりあってるんですね。なぜでしょうか? 犬はずっと飼い主の心を読んでいるんです。心を読んで、それに反応している。結局は「人間が犬に飼われている」だけです。対等じゃない。もし犬と対等になりたかったら、犬の気持ちを読まないと。人間が犬の気持ちを読んであげると、そのときはじめて、犬は自分のわがままを言うんです(それもまた厄介ですけどね)。

自分が犬を散歩すると解らないけど、他人が犬を散歩してるのを観察してみるとよくわかりますよ。犬は飼い主の表情や仕草を気づかれないように見ているんです。ですから、雰囲気を読むことは犬でもできます。

世間で「もっとよく考えなさい」と教えているのは、「正しく対応しなさい」という意味なんです。ゴチャゴチャ考えろ、という意味ではありません。「空気を読め」という場合は正しい教え方です。空気を読めない時は、頭が過去にある。過去にいるんです。過去にいる人にとって、現在はとてつもない大変なことです。未来はまだ現れてないのだから、当然わからない。ワンパターンならば推測できます。しかし事実はワンパターンではありません。将来は手に負えない。そこで、妄想してあえて過去に行っている。もう、お手上げ状態です。いまの、その時間に生きていないで、まだ過去にいるんですから。時間だけは減っていきます。これって、ルームランナーの上を走ってるようなものです。いくら頑張っても、走行距離はゼロです。くたくたになって結果なし。浪費、無駄です。

むかしは、人間と動物に差はなかったんです。いまを生きなかったら死にますから。いまこの獲物どう捕るか。それで能力開発したんです。いまのことばかり考えたから。でも、言語が出てきて考えるようになったら失敗ばかりです。神とか宗教とか、そういう下らない思考のお陰で、差別、嫉妬、憎しみ……一切の悪がでてきた。動物はまだ本来の能力を持っています。でも、人間は文明の発達とともに、気持ち悪い肉の塊になってしまった。ただ、道具のお陰で生きている。本人に何の能力もないシロモノになってしまったんです、考えることで。

いつでも、生きるためには、自分でもっている能力が必要です。人間の能力は退化してゆくんです。個人個人が生き延びないといけない。個人の能力が必要です。社会を開発すればするほど、人間の悩みは増えるんです。ちょっとしたことも解決できなくなります。現代人の生きる幅は極端に狭いから、人づきあいって言っても、ホンの数人とのことでしょ? それさえもうまくいかなくて困っているのだから。何人かとの人付き合いもできないようでは、生きる権利さえもないんです。

私たちは、生命として持つべき能力を失ってはいけない。たとえ、足一本なくなったとしても大丈夫です。でも、内蔵は大事にしないと。外面のことばかり気にして、すべてを司る脳細胞に無頓着でいる。それって、コンパスを大きな磁石に近づけたままで、方角を調べるようなものです。「現代文明」という地場で針がずれている。「生きる」というところからずれているのです。

瞑想とは、妄想をやめることです。過去に行きるなかれ、という実践です。ルームランナーの上を走っても、マラソンに参加したことにもならないのです。マラソンで最下位になっても、かっこ悪いことはない。でも、参加しないのはかっこ悪いです。心は過去に行って、肉体だけ置いてある。肉体はどんどん年をとる。時々、現在に戻ってもくたくたに疲れて何もできないんです。「年取りたくない」というのは、今を生きてないからです。今、やるべきことやって来なかったからです。だから、未練たらたらで死ななければいけなくなる。現在だったら、現在を生きていないといけない。状況が変わったからといって、困った困ったと悩むことはありません。仏道を歩むとその瞬間から、幸福になるのです。

自分に本来ついている能力を取り戻すことです。「落とし物」を拾ってほしい。自分が落としたものですから、自分で拾わないと。そうして、人間が達するべき境地、「解脱・悟り」までで到達することができるのです。人間のレベルを乗り越えることが瞑想です。

ただ「人間に戻った」だけでは修行の終わりではありません。人間を乗り越えるのが修行の完成です。過去は死体です。処分すべきものです。抱きたければ、生きている人を抱いてください。悪臭を放つ過去を抱くものではないのです。

(2008年3月20日ゴータミー精舎での法話より メモ文責:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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February 26, 2008

仕事の焦りをなくす方法・他

Sumanasara

2月24日(日)、ゴータミー精舎ヴィパッサナー冥想と法話の会(スマナサーラ長老指導)での質疑応答メモです。

実況中継と感覚がずれてしまう
実況中継と感覚は一緒になるように、いつでも気をつけていなければいけない。それが挑戦です。「慣れた」と思うのは危険です。心は「いま・ここ」から脱線したがるのです。妄想したがるのです。心のからくりに負けないように。

慈悲の勘違い
「生きとし生けるものが幸せでありますように」と思ったからといって、その通りにならない。慈悲の冥想は自分の心を育てる修行です。自分が清らかな気持ちを育てることです。願ったら叶う、という神秘・迷信は捨てなければいけない。ブッダは加持祈祷や占いを「畜生にふさわしい生き方」と呼んで捨てたのです。慈悲は自分の心を育てる修行です。

儀式儀礼と宗教の違い
儀式儀礼は犬猫にもできます。宗教のあるべき姿は、心清らかになるようにと人を育ててあげること。心が命ですから。

他人を許せない
私は不完全であり、不完全な人間の中で生きているんです。しかし、私たちは、自分のことはすぐチャラにする。他人のことは決して許さない。俺はさんざん嘘つくがオマエはみじんも嘘つくな、という性格で生きています。これは、いかにだらしない性格かと気付かないといけない。どんなに侮辱されても恨みを抱かない人格者に、慈悲の瞑想でなれます。

世界を守る「親心」
子供の幸福を願う親の優しい気持ちで、世界は破滅せずに済んでいる。だから政府ではなく親に感謝すべきです。

子供に道徳を説く
仏教は善悪について普遍的な価値観を教えています。子供が生まれる前に親が真理を知っておけば子供は助かります。

仏教はフィルターを提供する
学校や社会や周りが何を言おうが、普遍的な善は行うべし。悪は止めるべし。周りの機嫌を損なわないために道徳を破ってはいけない。環境の中で生きている我々はフィルター持った方がいい。悪いものは受けず、善いものだけ受け入れるフィルター。仏教はフィルターを提供しています。

自由な教え
仏教は自由な教えです。道徳のフィルター持っているのだから、心を守っていれば大丈夫。(こころの)環境汚染を心配しないでどこでも行けます。他宗教と違って、仏教には「心の自由」があります。

道徳の基準
仏教の道徳基準は次のようなものです。自分の、周りの、一切生命のどれかの不幸になることだったらやめる。一部が幸福になって一部が不幸になることも止める。その上で、自分の、他人の、一切生命のいずれか~全体の幸福になることは行う(善行為にはレベルがある。他を不幸にしないならば自分の幸福を追求することが正しい。自・他の、自・他・一切生命の幸福に繋がる行為はより大きな善である)。何の幸福のためにしているか自覚する。それは善悪を「結果」で判断するフィルター。善悪を「心」で判断するフィルターは、貪瞋痴があるか否か。貪瞋痴が入った行為は悪。入っていない(不貪不瞋不痴)行為は善。行為の結果か、心の汚れか。二つのフィルターを使います。

質問の作法
質問する人のなかに、あらかじめ自分で二択・三択・YES/NOなど答えを設定する人が多い。それは答える人の自由を奪うことです。「自分の思考の範囲でしか答えを受け取らないぞ」という意志のあらわれです。質問しておきながら、答えを受け取る器を壊していることです。真理に対して、心を閉ざしていることです。残念ながら、ブッダはあなた方より遥かにレベルが高いのです。あなた方が考え付くような凡庸な答えは出さないのです。だから、自分から真理を受け取る器を壊してはいけません。

仕事の焦りをなくす方法
皆、焦らないようにしたい、落ち着きたいと思っています。しかし世間で言っている落ち着きとは、「無知の落ち着き」です。生命は本来無知だから、マンネリになりたいのです。それで頭がどんどん悪くなって、堅くなります。変化に対応できなくなるのです。自分という存在は、毎秒毎分新しい自分です。その都度、適応しないといけない。その都度、正しく適応できるなら正しい生き方をしているのです。仕事をしていたら、毎日問題が起ると思った方がいい。新しいわけ解らないことがあると覚悟しておけばいい。そうすれば、いつでも「期待通り」になりますから。それで最初の焦りが消えます。
次に、自分の目の前に時計を置いておくこと。最初の一分で何ができるか。次の一分で何ができるか。というふうに一分刻みで仕事をしていけば、何のことなく時間内に終わっています。焦らないのです。デジタル時計を見て仕事すると整理整頓されて効率があがります。なぜ焦るのでしょうか? 先のことを考えるから焦るのです。現実を見ると焦らないのです。現実を見て、順番でものごと見る人は焦らないのです。
新しいものごとに挑戦しようと生きる人は幸福になります。それが人間らしい生き方。
ワンパターンに生きようとすると不幸になるのです。それは動物の生き方だから。
「能力向上」の方法なんて成り立たないのです。正しく仕事をすれば、能力は勝手に生まれてくるものです。整理整頓法なんかもありません。勝手に整理されてくるのです。正しく仕事して能力向上する。それが正しい順番です。仕事することが能力向上の道です。

(文責:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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January 30, 2008

ヴィパッサナー瞑想で進歩するということ

Sumanasara1 スマナサーラ長老の「上座仏教教室」(2008年1月24日ゴータミー精舎)質疑応答より。

Q 八ヶ月も冥想続けて、何の体験もない。同じところをグルグル回っている感じがします。本を読んだりすると、冥想していろいろ体験を得る人もいるみたいですけど……

  

A (冥想をして何かの現象、神秘体験を求める人は、)残念ながら、冥想で成功しない道を選んでいるようです。ブッダの道からかなりずれています。これって困ったもので、人が真面目に冥想しようとすると、誰かが横から口を挟んで、道を壊してしまうのです。なんて慈悲がないことかと思います。自分に(冥想を成功)出来なくたっても、(冥想を)やる人にはやらせておくべきでしょうし。

 だから、そういう妄想概念を目指して冥想しても、それは冥想ではないんです。「妄想をやめるために冥想する」んです。どうしてそんな無責任なことを書いてある本を読むんでしょうか? なんでそういう無責任な人の話を聞くんでしょうか? これはブッダの道じゃないんですよ。
 これはすごいぞ、あれができるぞ、と餌を出して人を引き寄せるのはブッダの道ではないんです。神秘体験があるんだ、俺もやるぞ、というのは、餌に引っかかっているだけでしょうに。それは歩む道が違います。

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December 26, 2007

仙台講演会 怒らないこと

12月24日に仙台でA.スマナサーラ長老講演会「怒らないこと Don't Get Angry」(仙台市情報・産業プラザ)が開催されました。以下、当日の法話メモです。

071224101213 怒るしかない世の中で、怒らないでいることはすごいことです。
料理は準備が大変ですが、あっという間に食べ終えて、片づけにまた時間がかかる。そういう人生で、怒って嫌な気分になるのは当然です。面白くない、退屈というのも怒りです。条件が好ましくない、ということが怒り。条件がそろっていると怒らないのです。愉しいのです。カンカンに怒ることだけが怒りではなくて、嫌な気分、退屈、あー嫌だというのも怒りです。だから、人間は一日じゅう怒ってるのです。

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December 24, 2007

ダンマパダ講義 賢者の章 78偈

2007年12月23日に開催された、スマナサーラ長老による今年最後のダンマパダ(法句経)講義のメモを掲載します。

na bhaje paapake mitte.
悪友とつきあってはいけない、
na bhaje purisaadhame.
卑しい人とはつきあってはいけない。
bhajetha mitte kalyaaNe.
善友とつきあいなさい、
bhajetha purisuttame.
尊い人間とつきあいなさい。
(Dhammapada 78)

スマナサーラ長老 撮影:相田晴美

これは一般的な教えです。お母さんも言ってくれる、決して珍しくない言葉です。

なぜ悪人と手を切らなければいけないのでしょうか。
それは、「影響を受けるから」です。

人付き合いとは互いに影響を受けることです。
関わりを持って生きることは影響を受け合っていることです。
物理的な関わりではなく心の関わりなのです。
生命とのつきあいは確実に心のふれあいになります。
しかも、影響は一方的ではないのです。
強い人の影響を弱い人が受けるのです。
「朱に交われば赤くなる」のは、本人が弱いときです。
本人の心が強ければそうならないのです。
これは、法則として覚えておくべき事です。

どうしても仲間に入りたい、人とつきあいたい、友達をつくりたいと思っているとき、危ないのです。自分の芯が弱いからです。「誰でもいいから友達がほしい」という状態は危険です。相手の影響をもろ受けます。芯が強い人は、無理に他人とつきあいたいと思わないのです。

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June 10, 2007

[Dhamma]ブッダの「無価値」論/ブッダの道徳・世間の道徳

「ブッダの「無価値」論/ブッダの道徳・世間の道徳」(48分27秒)をダウンロード

A. Sumanasara thero. Photo by Harumi Aida

アルボムッレ・スマナサーラ長老の法話ポッドキャスティングです。2007年6月9日 「ヴィパッサナー冥想と法話の会」(ゴータミー精舎)での質疑応答より。以下、講義のメモと併せてお聴きください。

●ブッダの無価値論

Q:何冊か長老の本を読みました。その中で「心を壊してしまう」という一節を読んで怖くなった。心を壊してしまってホントに大丈夫なの?

A:その文章の脈絡が解らないと言いにくい。しかし仏教は幸福の道を語るから、仏教の言葉に怖くなる必要はないんです。仏教は幸福になるために、不幸の原因を壊すんです。不幸の原因に「価値」を入れるとそれが残ってしまう。なぜ幸福になれないか? ずっと原始時代から人類頑張っている。いろんな開発しながら、発展しながら現代まで。目的は一つ、「幸福になりたい」と。宇宙にまで行くけど一向に幸福にならない。あらゆる技術あっても地球上の人に食べ物がない。いまだに人殺しもやめられない。原始時代からいままで人殺しをやってきた。ぜんぜん幸福になってない。

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April 29, 2007

感情の「苦」と真理の「苦」

スマナサーラ長老 撮影:相田晴美 行楽日和を絵に描いたようなうららかな陽気のもと、ゴータミー精舎ではスマナサーラ長老指導のヴィパッサナー冥想会。毎度の事ながら本堂にはたくさんの善男善女が詰め掛けて、初心者指導を受ける方も30名以上に上った。以下、質疑応答の時間のスマナサーラ中老のご法話メモより。

仏教では「生きることは苦である」と言っています。それと、私たちが考えている世界は同じではないんです。私たちも時々「生きることはたいへんだ」と言ったりしますが、ブッダの言葉は超越した智慧によるもので、真理なのです。それが解るとたちまち悟りに達する言葉です。「生きることは苦である」と解ったら悟りに達するのです。それには、生きることが全体的に、どこに生きていても、生きることは苦であると発見しなくてはいけないのです。地獄に行っても、極楽に行っても、生きるならば苦である、存在が苦であると知ったならば、悟りに達します。

みなさん、仏教に出会って一生懸命修行しています。「生きることは苦しいんだよ」という気持ちで来ています。しかし、そこで、ややこしいことがあるんですね。人間には、感情というものがあるんです。感情で「苦」と言っても、何の意味もありません。感情的に言うことは事実ではない。いいかげんです。感情的になったら、自分の子供にもいろいろひどいことを言うでしょう。でも、ほんとはそう思っていない。友達同士で、「お前なんか死んでしまえ」と言っても、ほんとにはそう思っていない。感情的な気持ちは事実ではないのです。子供たちが「お母さん大嫌い」と言ったりするが、それは感情まかせの言葉です。ほんの二、三分でまた来てべったり甘えるんだから、子供は。感情的に「生きることは苦である」といっても、何もわかっていないんです。

では、自分が感情的に「生きることは苦である」と思って仏教に来たのか、理性的に「生きることは苦である」と理解しようとしているのか、その区別方法はあるんでしょうか?

ひとつあります。人間は豊かになって、幸福に、幸せに、成功者になって、勝利者になって、この世で生きていようではないかと頑張っています。若いころも明るい設計図を頭に描いて生きてます。でも、何一つもうまくいかないんです。
私立の中学校に苦労して入って、意気込んだがいざ行ってみると叱られたり苛められたりで嫌なことばかり。ろくに勉強もできなくなる。立派な学校に入ったのに、自分は勉強できなくなった。大学で理工学部に入ろうと夢見ていたのに、このままじゃ高校卒業もできない。何もかも嫌になって、「生きることには何の意味も無い、苦しいんだ」と思う。それで、そういう人々はたいてい自殺するんです。

そんなふうに、命捨てるまで「生きるのは嫌だ」と思っても、それが智慧なのでしょうか? 違いますね。ただ失敗しただけです。成功して生きていたならば、その気持ちは無かったんです。俗世間で成功したい気持ちがあるけど、上手く行かない時にでてくる反応的な気持ちも感情なんです。

誰かに裏切られて、「人間と言うのは信用できない」という考え方に執着して、誰も信頼しないで生活する人がいる。ブッダも同じことを言っていますよ、「人間は信頼できませんよ」と。では、その人はブッダの智慧に達しているんでしょうか? 違います。ただちょっとしたことで感情をひきおこして、精神的におかしくなっているだけです。智慧で発見したわけではないんです。

自分の希望が叶ったらよかったのに、叶わなかったから「生きることは苦だ」と決めた、という場合は明らかに感情です。生きることは苦しい、ホームレス、サラリーマン、家の奥さん、幼稚園の子供、国会議員、皇室の方々も、、アメリカの大統領でも、生きることが苦しいんだと。天皇陛下でもイギリスの女王陛下でも、生きることは苦しいんだと。ノーベル賞とっても、オリンピックで金メダルとっても苦しいんだと。それはこういうことじゃないか、という理解があるなら立派です。その人には感情があるわけではないし、成功しようと、やってみてできないわけでもない。そういう理解であれば問題ないんです。そういう人は、ブッダの言葉をすぐ理解します。

でも、精神的な病気で腹が立っているならば、まずその病気を治さないといけない。精神的に病気では(悟りをひらくための)冥想はできません。ブッダの教えは知識人、精神的に健康体の人が実践するものです。

世の中では、お母さんのことが「大好きだ」と言いたいのに、してほしいことをしてくれなかったから、「大嫌いだ」という。それだったらただの感情で無知で、嘘です。恋に落ちると「あんたのこと世界一、大好きだ」と言いますけど、真っ赤な嘘でしょう。ただ感情で、その時その人のこと好きになっただけ。感情からでてくる考え、言葉は、何の根拠もない嘘です。

客観的に考えて、調べて研究した結果は嘘ではありません。調べたところで達した結論は嘘ではない。しかし、もっとデータ取れるかもしれないから、「真理」とは言えません。真理というのはお釈迦さまの言葉だけです。お釈迦様は、一切を「知り尽くして」言っているのですから。我々はある程度のデータを集めて結論に達するだけですから、言えるのは、「これは嘘ではない」という程度です。

自分は感情的に「苦しい」と思って仏教をやっているのだと解ったとき、どう方向修正すればいいんでしょうか?

それには、学ぶことです。いろいろ学ぶことです。ひとつ、言い忘れたポイントがあります。世の中では、これが善い、これが悪いと判断します。「人生は苦しい」と言ったり、「いや楽しい、頑張れば何とかなる」と言ったり、そうやって白黒に分けようとします。それは、あまりよくないんです。よく見てみると、そう簡単に分けられるのでしょうか? 「人生が苦しい」と言う場合、「楽な人生もあるんじゃないか」というか反対の説もあって、そこから出てくる考えだから、白黒論です。その道は、仏教は認めないんです。

ある宗教の方々は、「生きることはろくなものではない。全部捨てるぞ」という感情で修行して、それである冥想の境地にも達します。これは「心を止める瞑想」と言うのですが、仏教では禁止しています。

白黒を分けるのは気をつけたほうがいいのです。白黒分けないで見たとき、生きることは苦だとわかったら、それは真理の答えなんです。例えば、美しいキノコがあって、すぐ食べたい。でも、この美しいキノコは毒キノコだよ、という場合、キノコに評価しているのです。その場合は事実です。しかし、「ニンジン大嫌い。あんなもの食えない」というのは感情です。それは事実ではない。ニンジンは健康的な食べ物だけど、ある人はそれが嫌い。でも、強引に食べさせても死ぬわけではない。その人の体に栄養になりますから。

でも例えば、アレルギーの人がいて、ニンジンを食べられない。「私にとってはニンジンは毒です」というのは正しいんです。このように、ものごと判断する場合は、善悪に分けるではなく、状況を調べて、善いか悪いかを判断しないといけない。

我々はそういう判断で生きているでしょうか?ちょっとしたことあると、すぐ全体的に善悪判断してしまうでしょう。ある人が犯罪を犯すと、家族まで糾弾するでしょう。家族から犯罪者を出したんだから、家族も被害者なのに。彼らも助けてあげないといけないのに。

そういう間違った思考で、「我々はあれも知っている、これも知っている」と言ったところで、感情だけで真理には達しません。ブッダが教えたのは、そういう(感情だらけの)自分を正す方法です。どうせ感情で生きていて、完全な判断はできないのです。しかし、自分にできる範囲の判断はしっかりしないといけない。しゃべるときもすごく気をつけて、自分の調べた範囲では、これこれであると言わないといけないのです。

ものごとはうかつに判断できません。我々は、真理を発見しないといけないんです。そうすると、判断でもなんでもなくなります。「地球が丸い」というのは、判断ではなく事実です。事実に達したら判断とも何ともいえない。事実に達していない場合は判断するのです。

お釈迦様は、「真理を守りなさいよ」と仰いました。

その意味は、「何かを言う場合でも断定的ではなく、『私の知っている範囲ではこうだ』と言いなさい」ということです。誰かのことを訊かれたとしても、「Aさんは、私の知っている範囲ではこうですよ」と言えばいい。「私の知る限り、Aさんは落ち着いている人だ」と言えば、真理を守っています。他の人が、「Aさんは感情のコントロールをできないと言って、実際Aさんが精神科で性格異常と判断されるかもしれません。それはわからない。でも、「私の知っている範囲では」と一言加えて言うだけで、真理を守ったことになります。その人は、「真理を知らない」けれど、「真理を守っている」のです。ですから、今日からやってみようと思ってください。人生が変わりますよ。

真理を守って生きる人が、「真理を知る」ためには、心の中で感情的なセクションをなくさないといけません。そうすれば、信頼できないこの世界で問題なく生きて生けます。それで、感情の判断を離れて、「生きることは苦である」というお釈迦様の説かれた真理も発見できるのです。
(文責:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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January 29, 2007

流れる川のように生きる (スマナサーラ長老の法話より)

Dsc_82781月28日14:00より、スマナサーラ長老のヴィパッサナー瞑想指導の会(於:ゴータミー精舎)を開催。テレビ東京日曜夕方(18:30-19:00 サザエさんの裏)の番組「トコトン ハテナ」の取材が入りました(2月25日(日)に放映予定)。

初心者指導には20名以上が参加。質疑応答の時間も、素直な質問が多くてためになったと思います。ご法話のおわりごろ、スマナサーラ長老が「自分」を川の流れにたとえてお話したくだり、信じられないほど美しかったので、メモから紹介します。

流れる川のように生きる

変わらない自分はいません。瞬間瞬間、自分は変わるんです。
だから瞬間瞬間、自分が幸せであるように生きることです。
自分というのは、流れる川のようなものです。
生きることは「流れ」ですから、変わらない「自我」は成り立たないのです。
自我が出たとたん、ワガママになって、物事がみえなくなって、頑固になって不幸になってしまう。
自我の気持ちがあるから、ものすごく苦しみが生まれる。
ケンカすることも、落ち込むことも、強烈な自我なんです。
全部流れるのです。嫌なことがあってもその瞬間だけ。
川は流れるものだから、止まったら、もう川ではないのです。
川は流れるけれど、暴流になって氾濫したら皆が困るでしょう?
川が美しく流れるとき、両岸の土地にも水を与えて、農作物にも水を与えながら、皆に幸福を与えながら、海に注ぐのです。
自分という川が、自他に迷惑かけることなく流れることが、幸福なんです。
美しく流れる川は、ダムを作ればそこで発電できる。
田んぼを作ればそこに栄養与えてくれるし、あらゆる生命がそこで生きていられる。
そうやって、美しく海に流れていく。
我々もそんなしっかりした川のように生きていかないといけないんです。
(アルボムッレ・スマナサーラ長老 28.Jan.2007 ゴータミー精舎での法話より)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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April 09, 2006

私はない。あるのは因果法則。

Srifes あるのは原因と結果だけです。原因をそろえればそれに見合った結果が出てくるのです。目的に達するための情報を集めて、原因を与えてあげる、原因が揃ったら結果が出ます。

“「私が」やりました。「私のもの」です” というのは極端に無知な思考です。一切は、因果法則で成り立つのみです。

農業と同じことです。お百姓さんは種をまいて、たくさん収穫できるように原因をそろえるのです。「『私が』芽を出させる」ことは決してできないのです。 次の言葉を覚えておいてください。

ないのは自分。あるのは因縁。
私はない。あるのは因果法則。

瞑想がうまくいかないのは自我意識が強すぎるからです。
いつでも、“「私がいる」と証明してやろう” と瞑想するから、結果はゼロなのです。

ブッダに従って、「私はない。あるのは因果法則」という前提で生きてみましょう。
そうすれば生きるのは楽になります。「なんで私が…」というストレスから解放されます。

勿論、生き方の前提に、いつか自分自身で「証明」を出さないといけません。 自分で悟らなければいけません。
「私がない。あるのは因果法則」という前提で生きているなら、心に余裕があるから、真理の「証明」も出しやすくなるのです。

(A.スマナサーラ長老 四月八日『ダンマパダ(法句経)』講義のメモより)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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March 26, 2006

A.スマナサーラ長老 春の無料講演会(3月25日)

060325hatagayacityhall 3月25日(土)13:30-16:30 幡ヶ谷区民会館(東京都渋谷区幡ヶ谷)にてスマナサーラ長老の講演会『六つの感覚を悟る ブッダが説く「すべて」とは?』が開催されました。

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February 26, 2006

冥想会での質疑応答「自尊心が傷つけられたとき」

62520007  本日はゴータミー精舎にて、A.スマナサーラ長老のヴィパッサナー瞑想会。初心者指導に20名以上の方が詰め掛けて大盛況でした。当日の質疑応答のやり取りをご紹介します。(速記を基にしたので不正確なところもあるかもしれません。ご容赦ください)

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December 25, 2005

年末特別法話会での質疑応答

今日はゴータミー精舎の大掃除。朝から大勢の方が駆けつけてくださり、精舎のあちこちにたまった一年の埃を払いました。寺猫ナミは、菩引っ込み思案のイナリといっしょに、今日は掃除のあいだ、事務所倉庫のダンボールのなかに自分から梱包されて寝ていました。

IMG_2039

午後からは、スマナサーラ長老による年末特別法話会が開催され、活発な質疑応答が交わされました。その一部を速記しましたので、以下にご紹介します。

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December 10, 2005

ダンマパダ講義のレポート 第四章 花(Dhp IV: puppha-vagga)57

IMG_1953 本日ゴータミー精舎で開催された、スマナサーラ長老によるダンマパダ(法句経)講義のレポートです。その場で取ったメモをまとめたので、文意を取りにくい点、意を尽くしていない点などあることをご容赦ください。すべての文責は掲載者(佐藤哲朗)にあります。

斜体( )の箇所は、かなり自信のない?掲載者の解釈です。

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