“慈悲の瞑想”と死者供養/仏教の「無意識」批判

今回のDhammacastはゴータミー精舎での質疑応答より。法話メモは参考程度なので、ぜひ音声もお聴きください。
Q:死者に向けて「慈悲の瞑想」はできないのでしょうか?「慈悲の瞑想」と「供養」との差は何ですか?
A:瞑想とは自分の心を育てることです。供養は他者を助けてあげることです。「慈悲の瞑想」による功徳を他者に供養して与えることはできます。瞑想は自分の心を育てることだと覚えておいてください。これは「勉強すること」と「教えること」のようなものですね。
死んだ人に慈悲の冥想をしないのは、決して死者を軽んじているわけではないのです。「生きとし生けるものが幸せでありますように」という時には、死んだ人が生まれ変わったどこかの生命も含まれる。ちゃんと瞑想の対象に入っているんです。私たちが、死んだ人のことを思い出すと気持ち悪い、叶死感情が湧いてくる。必ず湧いてくる感情は悲しい感情なのです。
生きている人に慈悲の瞑想をする場合、たとえ悲しい感情が起きても「何とかしなくちゃ」となります。冥想中に怒りが湧いてきても、「この気持ちのままではマズイ。私は誰に対しても怒らないために瞑想するのではないか」と戒めて修行できるのです。死んだ人の場合はそれもできない。他にも理由がありますが、理解が難しいので説明はしません。とにかく、死者には功徳を回向すること。いま現在生きている生命には慈悲を実践することです。
Q長老は「無意識は存在しない」と仰ります。では、他人からの暗示で動くことはどう考えるべきでしょうか?
A:暗示といっても、思い出せないだけです。そのときも意志で行動しているのです。普通の意識状態ではないですが、普通って何でしょうか?無意識というのは一般的な考え方で、科学的な分析ではないのです。いま暗示状態ではないと言えますか? ほんとうは意志をコントロールできるのは修行した人だけです。他の人は、いつでも暗示かけられている状態なのです。そして、そのことに気づきもしない。気づく方法もないのです。この世界に生きている人は、自分の意志にしっかり責任を持てない危険な状態なのです。
しかし、無意識で「やらされている行動」ということはありえません。やっているその瞬間は、本人が自分の意志でやっているのです。だから現代社会で犯罪者を精神鑑定で無罪にしたとしても、仏教は決して無罪にしません。自分のやった行為の結果として業となるのです。業にはいいわけできない。「神の声」が聞こえたから殺したんだ、などと言う場合でも、犯人はちゃんと「弱い人」を選んで殺しているでしょう。前後の整合性がなくても、その瞬間は、意志でやらないといけないのです。
仏教で否定するのは二重構造の無意識です。寝ているときは意識がない。熟睡状態です。それも無意識といえば無意識です。そういう「無意識」なら反対しません。しかし、その無意識(アビダルマの有分心)も命を繋ぐはたらきは欠かさないのです。考えることが不可能なだけです。心の流れを一本にして考えるなら、無意識の概念にも反対ではありません。仏教は、意識の多重構造の考えには反対なのです。それは心の機能からしてあり得ない、不可能なことですから。
夢で人を殺しても「罪」なのです。人を殺したいという意欲がでてきて、概念で殺す。殺人の罪ではないが、そのときの怒り憎しみは本物です。はっきりしています。夢で犯す罪も罪なのです。仏教の人は、夢の中でも道徳判断して罪を犯さないのです。夢は無意識だから管理できないよ、という人に私は、「いま起きているあなたの意識も管理できないでしょう。妄想だらけで、あらゆるマインドコントロールを受けているんだから」と答えるのです。
(2008年3月20日ゴータミー精舎「ヴィパッサナー瞑想と法話の会」での質疑応答より 法話メモ:佐藤哲朗)
~生きとし生けるものが幸せでありますように~


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