May 05, 2008

仏紀2552年ウェーサーカ祭(Vesak,Wesak)記念壁紙/Free Tibet, Free Burma壁紙

仏紀2552年(西暦2008年)のウェーサーカ祭を記念して、日本テーラワーダ仏教協会オリジナル壁紙を配信します。協会の月刊誌『パティパダー』5月号(Vol.15 No.01)表紙イラストをもとに上杉久代さんがデザインされました。

今年は通常のウェーサーカ記念バージョンとともに、チベットとビルマ(ミャンマー)の自由と一切衆生の幸福を願うバージョンも作成しました。ウィンドウサイズ別になっておりますので、ご利用環境にあわせてご活用下さい。

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サイズ:800×600

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サイズ:1024×768

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サイズ:1280×1024

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サイズ:1280×800(ワイド)

タイトル:「花」
イラスト/デザイン:上杉久代
コメント:チベットで起きていることを思うととても胸が痛みます。そう遠くないいつか、彼の地に希望の花が開きますように。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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May 01, 2008

紀伊国屋ホール講演会『あべこべ感覚』ビデオ配信

去る2008年4月23日、東京は新宿紀伊国屋本店・紀伊国屋ホールに400名を集めて開催されたスマナサーラ長老講演会『あべこべ感覚』がyoutubeでビデオ配信されました。以下のリンク先からご覧ください。(計12本)

20080408155010

http://jp.youtube.com/user/samgha003

〜生きとしけるものが幸せでありますように〜

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April 27, 2008

4月19日福岡講演「お釈迦様の教え~惑わされない生き方~」(Dhammacast)

「『お釈迦様の教え~惑わされない生き方~』」(64分12秒)をダウンロード

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はじめての九州講演をポッドキャストで!

去る2008年4月19日、福岡市健康づくりセンターあいれふにて開催されたアルボムッレ・スマナサーラ長老講演会『お釈迦さまの教え~惑わされない生き方~』[講演概要]をDhammacastで配信いたします。

「心というのはけっこう弱いものです。どれくらい弱いかというと、ちょっとした音がしたくらいでも、ちょっと何かが目に入っただけで、心は変わってしまいます。それだけで、たいへんなことになったりしますよ。みんなすごいショックを受けたりして、精神的に病気になって、人生もダメになったりとかね。ちょっと見えたり、聞こえたりしただけなのに。それくらい、心というのはざわめくもので、弱いもので、何かやわらかい葉っぱを火であぶっているような感じなんです。これはお釈迦さまがそのとおり仰っているんです。それから、外から何か情報が入らなくても、我々の頭の中は「竜巻」状態ですね。竜巻はどこからともなく現われて、ものすごい破壊をするでしょう。我々の心では、つねにすごい竜巻が渦巻いているんです。この竜巻というのは、あれこれあれこれ考えたりすることです。その「考えること」というのは、まったく下らないんです。ほとんど事実無根なんです。……」(次回はQ&A編をお届けします。)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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April 25, 2008

关于互相让步与和好解决西藏问题的请愿声明

关于互相让步和好解决西藏问题请愿声明 >>日文 
 
 三
,由于在西藏拉示威游行被武装警察暴力镇压,在中国各地发起了西藏佛教徒的抗据说,中国当局正持续弹压这种抗议行动。我同样的佛教徒,面对这种形势深深感到们请愿中国政府,能够停止西藏佛教徒的弹压,以及能够珍惜和保护西藏的宗教文化改变民族政策

 从一连串的西藏形势来看,我们不得不认为,至今为止中国的民族政策已经超过了西藏人的忍耐限度。想要使用强权来同化不同民族
,使国民单一化的尝试是决不会成功的。这种结局早在文化大革命的悲剧中,中华人民共和国的政府和人民不是深有体会吗?对中国来说,西藏人也许是少数民族,但是这不能成为弹压的理由。就算加以某种理由来管制邪教,也不能弹压这些有古老传统和宗教信仰的人们。特别佛教是对于一切生命都以慈爱为怀,贯彻非暴力主义,不会给政治家和掌权者带来什么麻烦的宗教。 佛教是中国文化的一部分。西藏人是自豪的民族。尊重和保护这样的宗教和文化,不也是使中国文化更加丰富多彩,使世界瞩目中国的事情吗。希望中国的领导者能够理解到,使生活在中国的西藏人能自由享受自己的宗教和文化,是他们应该履行的责任。为此,中国政府的感情用事是解决不了任何问题。应该不加以任何条件地拿出更有大国风范的态度,展开与西藏佛教领袖达赖喇嘛的对话。可以说,不同民族相互理解,和平共处是人类共同的理想。佛教从二五〇〇年前一直都在宣讲实现这一理想的方法。西藏所发生的事件被全世界而瞩目的原因,不正是因为西藏人热爱和平的生活方式,超越了国界和宗教被许多人而尊敬的缘由吗。

 “芸芸众生都能够幸福”,这佛教的愿望是不分敌我的。因为政治上的问题而出现的暂时的对立,佛教徒也不会以怨报怨,一直拘泥于过去的仇恨之中的。我们认为,与这种实践佛教思想的西藏人和解,自古以来就很会行政的中国政治家来说决不是什么难题。
 此外,我们也希望日本政府对于解决西藏问题,能够采取积极的行动。日本自古以来就与中国有着深远的关系,而且也与遥远的西藏因为佛教结下了友好的关系。日本在理解双方立场下,应该可以采取中立的,纯粹关心对方的态度,解决西藏问题。希望政府可以努力提供一个对话场所,让中国政府与达赖喇嘛双方代表同时来日,和解这一问题。

  我们也知道,在中国有反论认为“西藏问题是中国的内政问题”。但是,佛教是面向全人类的宗教。世界上佛教虽然少数派,但是有佛教信仰的人们应该相互关心。我们佛教徒们如果都不关心西藏人的话,有谁会伸出手来帮助他们呢。

 但是,我们认为提倡西藏和平与自由,决不能成为“反中国”的行为。如果对西藏的苦难有共感的话,就不能不为包括中国人在内的全人类的幸福而祈愿,为施行慈善之行而努力。

“我的心诀不动摇。我也不会说恶意的话。会作为怀有善良之心的人,也作为怀有无愤怒之心的人,而活着。”(
巴利経蔵中部二十一《锯经》)

  不仅只是我们佛教徒,所有关心西藏的人们都不会停止慈爱之心,用“一切众生幸福”的广阔视野来思考,言论,行动。也就是达赖喇嘛所说的那样,继续实践非暴力的“中庸之道”。我们坚信,这是解决问题的唯一方法。因为,这正是佛陀所宣讲的正道。

希望相互的接近与解能给西藏带来和平与自由。

希望芸芸众生都能得到幸福。

佛纪二五五一年(平成二十年)四月十四日
宗教法人 日本上座部佛教协会
会长 小西淳一
事务局长 佐藤哲朗

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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April 22, 2008

パティパダー B.E.2552年5月号

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19日に発送された、日本テーラワーダ仏教協会機関誌『パティパダー』B.E.2552年5月号の表紙(絵:上杉久代、デザイン:おかざきさゆり)です。2色刷りの大胆なデザインでお届けします。新連載:最新タイ版三蔵を底本にした正田大観訳『ウダーナ』もはじまりました。

『パティパダー(paTipadaa)』は日本テーラワーダ仏教協会の会員向け機関誌です。

<入会方法>
初年度会費として、7千円(次年度から年間5千円)を下記の郵便口座までお振込みください。通信欄には「 入会希望」と記入してください。毎月、機関誌『パティパダー(paTipadaa)』をお送りいたします。ご不明の点は協会事務局まで、お電話(03-5738-5526)か 電子メールでお問合せください。

【郵便振替口座】
00120-5-763914 日本テーラワーダ仏教協会
※協会への入退会は自由です。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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April 16, 2008

“慈悲の瞑想”と死者供養/仏教の「無意識」批判

「“慈悲の瞑想”と死者供養/仏教の「無意識」批判」(26分27秒)をダウンロード

Sumanasaratheroatgotami

今回のDhammacastはゴータミー精舎での質疑応答より。法話メモは参考程度なので、ぜひ音声もお聴きください。

Q:死者に向けて「慈悲の瞑想」はできないのでしょうか?「慈悲の瞑想」と「供養」との差は何ですか?

A:瞑想とは自分の心を育てることです。供養は他者を助けてあげることです。「慈悲の瞑想」による功徳を他者に供養して与えることはできます。瞑想は自分の心を育てることだと覚えておいてください。これは「勉強すること」と「教えること」のようなものですね。

死んだ人に慈悲の冥想をしないのは、決して死者を軽んじているわけではないのです。「生きとし生けるものが幸せでありますように」という時には、死んだ人が生まれ変わったどこかの生命も含まれる。ちゃんと瞑想の対象に入っているんです。私たちが、死んだ人のことを思い出すと気持ち悪い、叶死感情が湧いてくる。必ず湧いてくる感情は悲しい感情なのです。

生きている人に慈悲の瞑想をする場合、たとえ悲しい感情が起きても「何とかしなくちゃ」となります。冥想中に怒りが湧いてきても、「この気持ちのままではマズイ。私は誰に対しても怒らないために瞑想するのではないか」と戒めて修行できるのです。死んだ人の場合はそれもできない。他にも理由がありますが、理解が難しいので説明はしません。とにかく、死者には功徳を回向すること。いま現在生きている生命には慈悲を実践することです。

Q長老は「無意識は存在しない」と仰ります。では、他人からの暗示で動くことはどう考えるべきでしょうか?

A:暗示といっても、思い出せないだけです。そのときも意志で行動しているのです。普通の意識状態ではないですが、普通って何でしょうか?無意識というのは一般的な考え方で、科学的な分析ではないのです。いま暗示状態ではないと言えますか? ほんとうは意志をコントロールできるのは修行した人だけです。他の人は、いつでも暗示かけられている状態なのです。そして、そのことに気づきもしない。気づく方法もないのです。この世界に生きている人は、自分の意志にしっかり責任を持てない危険な状態なのです。

しかし、無意識で「やらされている行動」ということはありえません。やっているその瞬間は、本人が自分の意志でやっているのです。だから現代社会で犯罪者を精神鑑定で無罪にしたとしても、仏教は決して無罪にしません。自分のやった行為の結果として業となるのです。業にはいいわけできない。「神の声」が聞こえたから殺したんだ、などと言う場合でも、犯人はちゃんと「弱い人」を選んで殺しているでしょう。前後の整合性がなくても、その瞬間は、意志でやらないといけないのです。

仏教で否定するのは二重構造の無意識です。寝ているときは意識がない。熟睡状態です。それも無意識といえば無意識です。そういう「無意識」なら反対しません。しかし、その無意識(アビダルマの有分心)も命を繋ぐはたらきは欠かさないのです。考えることが不可能なだけです。心の流れを一本にして考えるなら、無意識の概念にも反対ではありません。仏教は、意識の多重構造の考えには反対なのです。それは心の機能からしてあり得ない、不可能なことですから。

夢で人を殺しても「罪」なのです。人を殺したいという意欲がでてきて、概念で殺す。殺人の罪ではないが、そのときの怒り憎しみは本物です。はっきりしています。夢で犯す罪も罪なのです。仏教の人は、夢の中でも道徳判断して罪を犯さないのです。夢は無意識だから管理できないよ、という人に私は、「いま起きているあなたの意識も管理できないでしょう。妄想だらけで、あらゆるマインドコントロールを受けているんだから」と答えるのです。

(2008年3月20日ゴータミー精舎「ヴィパッサナー瞑想と法話の会」での質疑応答より 法話メモ:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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April 14, 2008

チベット問題について 歩み寄りと和解を願う声明

チベット問題について
歩み寄りと和解を願う声明 >>中国語訳(簡体字)


去る三月十日、チベットのラサで僧侶のデモ隊が武装警察に暴行されたことをきっかけにして、中国各地でチベット仏教徒の抗議行動が起こり、中国当局の弾圧が続いているようです。私たちは同じ仏教徒として、この事態に深い悲しみを抱いています。私たちは中国政府に対して、チベット仏教徒への弾圧をやめて、チベットの宗教と文化が大切に守られるよう、民族政策を改めることをお願いするものです。

一連のチベット情勢を見ると、中国によるこれまでの民族政策は、チベット人の忍耐の限度を越えていたのではないかと思えてなりません。権力の強制で異なる民族を同化し、国民を単一化しようとする試みが決して成功しないことは、文化大革命の悲劇によって、中華人民共和国の政府と一般の方々は痛いほどわかっているではないでしょうか。中国にとってチベット人は少数民族かもしれませんが、それは弾圧の理由になりません。カルト宗教を何らかの理由を付けて取り締まることはあったとしても、昔から伝統を守って宗教を信仰する人々を弾圧してはならないのです。特に仏教は、一切の生命に対する慈しみを実践する、非暴力主義に徹した、政治家にも権力者にも迷惑をかけない宗教です。その仏教は、中国文化の一部でもあります。チベット人は誇り高い民族です。その宗教と文化を尊重し守ることは、中国文化をより豊かにし、世界の注目を中国に集めることにも繋がるのではないでしょうか。中国に暮らすチベット人が、宗教と文化の自由を享受し、幸福に暮らせるよう配慮することは自分たちの責任であると、指導者には理解して欲しいのです。

そのためには、中国政府が感情的になっていては始まりません。あれこれと条件を付けずに、大国らしい堂々とした態度で、チベット仏教のリーダーであるダライラマ法王との対話を再開することが必要だと考えます。 いろいろな民族が、お互いの文化を認め合いながら、なかよく平和的に共存することは、人類共通の理想と言えます。仏教は二五〇〇年前からずうっと、その理想を実現する方法を説いてきた宗教なのです。チベットでの出来事にいま世界中が注目しているのは、チベット仏教徒の平和を愛する生き方が、国や宗教を超えてたくさんの人々の尊敬を集めているからではないでしょうか。「生きとし生けるものが幸せでありますように」という仏教徒の願いは、敵も味方も差別しません。政治的な問題で一時的に対立したとしても、仏教徒は怨みに怨みで返したり、過去にこだわって憎み続けたりはしないのです。そういう仏教を実践するチベットの人々と和解することは、古代から政治の達人である中国にしてみれば、決して難しくないと思います。   

それから、私たちは日本国の政府に対しても、チベットの問題を解決するために積極的に動いてくださいますようにお願いいたします。日本は古代から中国と深い関係を築いてきました。また遠いチベットとも、仏教というご縁で友好関係が結ばれてきました。日本は双方の立場を理解した上で、中立的に、純粋に相手を心配する気持ちで、チベットの問題を解決できるはずです。中国政府とダライラマ法王側の代表者を日本に招いて、和解のための対話の場をもうけるよう努力していただきたいのです。

中国の人々から、「チベットは中国の内政問題だ」という反発が起きていることも知っています。しかし、仏教はすべての人類に向けて説かれた教えです。この世界で仏教徒は少数派ですが、ブッダの道を歩む人々はお互いに心配しあわなければいけません。私たち仏教徒がチベットの人々の苦しみに無関心だとしたら、いったい誰が彼らに手を差し伸べればいいのでしょうか。

しかし、チベットの平和と自由を訴えることは、決して「反中国」活動になってはならないと思います。チベットの苦しみにほんとうに共感するのであれば、中国の人々を含めた、人類全体の幸福を願う、慈しみに徹した行動をするように気をつけなければいけないでしょう。

「私の心は決して動揺しないのだ。また悪しき言葉を私は発さないのだ。また心やさしい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ」(パーリ中部二十一『鋸経』より)

私たち仏教徒のみならず、チベットに心を寄せるすべての人々が、慈しみの心を絶やすことなく、「一切衆生の幸福」という広い視野で考え、話し、行動していくことです。すなわちダライラマ法王が説かれるように、非暴力という「中道」を実践し続けることです。それが問題解決への唯一の道であると、私たちも確信しています。それがブッダの説かれた道だからです。

歩み寄りと和解によって、チベットに平和と自由がもたらされますように。 
生きとし生けるものが幸せでありますように。 

佛紀二五五一年(平成二十年)四月十四日 
宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会
会長 小西淳一 
事務局長 佐藤哲朗

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April 08, 2008

ゴータミー精舎の花祭り

あいにくの雨模様となりましたが、今年もゴータミー精舎で、お釈迦さまのご降誕をお祝いする日本の伝統行事、花祭りのご供養を執り行いました(誕生仏像は6日の名古屋初期仏教デーから帰京したばかり)。

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例年は桜並木のそばに誕生仏をまつった花御堂を設置するのですが、今年は豪雨のため精舎仏殿におまつりしました。美しい花御堂を作ってくださったのは、本間惠志子さん。

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記念品として花祭りカード(杜多千秋さんのお布施、デザイン:高橋優子さん)と甘茶クッキー(江原通子さんのお布施)などが配られました。

花御堂は10日の木曜日(ヴィパッサナー冥想会の日)までゴータミー精舎におまつりいたします。記念品も若干残っておりますので、ご希望の方はお早めに!

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なんかゴソゴソやってるなぁ……と思ったら、パドゥマ沙弥がダンボールで立体誕生仏&マーヤー夫人を作ってくれました。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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名古屋初期仏教デー“花祭りスペシャル”&伊勢神宮

2008年4月6日、名古屋市笠寺の日本ガイシフォーラムにスマナサーラ長老をお招きして、『名古屋初期仏教Dayr1周年記念 花祭りスペシャル ~ブッダの教えがこの世にある喜びを~』が開催されました。

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講演会場で誕生仏(ゴータミー精舎から出張)を安置した手作りの花御堂を飾りつける東海ダンマサークルの皆さん。

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花御堂を眺めるスマナサーラ長老。

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受付を手伝う?パドゥマ沙弥。スマナサーラ長老のお弟子さんです。キャンディにある僧侶学校の春休み期間を利用して来日中。太陽のような笑顔を振りまいて、みんなのアイドル状態でした。

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花祭り記念講演をされるスマナサーラ長老。会場には約100名が参集。休憩と質疑応答をはさんで、ヴィパッサナー瞑想の会。午後7時まで熱心な指導が行われました。

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6日は伊勢の神宮会館に宿泊。7日朝、東海ダンマサークル有志の皆様と、伊勢神宮(内宮)に正式参詣させていただきました。

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神宮の参道にて。ガイドをしてくださった神職のI様(神宮広報部)は神道のみならず仏教への造詣もたいへん深い方で、神宮の歴史と信仰について多角的に理解を深めることができました。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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April 03, 2008

KY(空気読めない)の自分をどうすべきか?(Dhammacast)

「KY(空気読めない)の自分をどうべきか?」(54分37秒)をダウンロード

Dsc_0140 Q:瞑想実況をするときに、言葉にあわせて動いているような感じになってしまうのですが……。

命とは「感覚」のことです。感覚器官(六根)によって感じる波動が違うだけで、肉体に生まれているのは同じ「感覚」というシステムなのです。分析すれば単純なことです。ヴィパッサナー瞑想はその感覚というシステムの研究です。生きるとはシンプルなことである、と発見することなのです。

冥想は、決して気休めではなく、智慧を発見することなのです。「膨らむ、膨らむ」と先に言葉が出てもいいが、感覚をじーっと感じてみることです。感覚をキャッチすることです。実況中継によって、思考停止しないといけない。智慧が現れるように。思考があるとレベルが低いんです。智慧は「感覚の発見」から始まります。ですから、言葉が空回りにならないように。

実況中継で、言葉を先に言う人は間違いが多いんです。焦っているんですね、観念で。言葉が遅れて後になる人は、集中力はないけど、気づいたことを言葉にしている。それは事実です。先に言葉で言ってしまう人は、まだ現われていない、事実でない、観念に拠ってしまっているのです。感覚を感じることは欠かせません。

Q:幼い頃から、「もっと物事をよく考えるように」と言われたり、仕事の上司からも「もっと人の気持ちを考えて仕事するように」とか「空気を読め」とか言われます。どうしたら空気を読んだり、人の気持ちが分かるようになれるのでしょうか?

なぜ「空気読めない」かというと妄想しているから。妄想の時間で生きている。過去に生きているんです。何か考えていると、空気は読めません。心がずーっと過去に行っているのだから。過去は実在しないものです。ただ肉体が現在にあるだけで、心はどこか過去に行ってさまよっている。現在を生きる人、妄想しない人は能力が付きます。何も考えないで、ただ行動するのです。

雰囲気を読むのはすごく簡単です。犬猫でもできます。犬を飼ったことのある人はわかるでしょうが、犬はいつでも自分の気持ちにぴったりあってるんですね。なぜでしょうか? 犬はずっと飼い主の心を読んでいるんです。心を読んで、それに反応している。結局は「人間が犬に飼われている」だけです。対等じゃない。もし犬と対等になりたかったら、犬の気持ちを読まないと。人間が犬の気持ちを読んであげると、そのときはじめて、犬は自分のわがままを言うんです(それもまた厄介ですけどね)。

自分が犬を散歩すると解らないけど、他人が犬を散歩してるのを観察してみるとよくわかりますよ。犬は飼い主の表情や仕草を気づかれないように見ているんです。ですから、雰囲気を読むことは犬でもできます。

世間で「もっとよく考えなさい」と教えているのは、「正しく対応しなさい」という意味なんです。ゴチャゴチャ考えろ、という意味ではありません。「空気を読め」という場合は正しい教え方です。空気を読めない時は、頭が過去にある。過去にいるんです。過去にいる人にとって、現在はとてつもない大変なことです。未来はまだ現れてないのだから、当然わからない。ワンパターンならば推測できます。しかし事実はワンパターンではありません。将来は手に負えない。そこで、妄想してあえて過去に行っている。もう、お手上げ状態です。いまの、その時間に生きていないで、まだ過去にいるんですから。時間だけは減っていきます。これって、ルームランナーの上を走ってるようなものです。いくら頑張っても、走行距離はゼロです。くたくたになって結果なし。浪費、無駄です。

むかしは、人間と動物に差はなかったんです。いまを生きなかったら死にますから。いまこの獲物どう捕るか。それで能力開発したんです。いまのことばかり考えたから。でも、言語が出てきて考えるようになったら失敗ばかりです。神とか宗教とか、そういう下らない思考のお陰で、差別、嫉妬、憎しみ……一切の悪がでてきた。動物はまだ本来の能力を持っています。でも、人間は文明の発達とともに、気持ち悪い肉の塊になってしまった。ただ、道具のお陰で生きている。本人に何の能力もないシロモノになってしまったんです、考えることで。

いつでも、生きるためには、自分でもっている能力が必要です。人間の能力は退化してゆくんです。個人個人が生き延びないといけない。個人の能力が必要です。社会を開発すればするほど、人間の悩みは増えるんです。ちょっとしたことも解決できなくなります。現代人の生きる幅は極端に狭いから、人づきあいって言っても、ホンの数人とのことでしょ? それさえもうまくいかなくて困っているのだから。何人かとの人付き合いもできないようでは、生きる権利さえもないんです。

私たちは、生命として持つべき能力を失ってはいけない。たとえ、足一本なくなったとしても大丈夫です。でも、内蔵は大事にしないと。外面のことばかり気にして、すべてを司る脳細胞に無頓着でいる。それって、コンパスを大きな磁石に近づけたままで、方角を調べるようなものです。「現代文明」という地場で針がずれている。「生きる」というところからずれているのです。

瞑想とは、妄想をやめることです。過去に行きるなかれ、という実践です。ルームランナーの上を走っても、マラソンに参加したことにもならないのです。マラソンで最下位になっても、かっこ悪いことはない。でも、参加しないのはかっこ悪いです。心は過去に行って、肉体だけ置いてある。肉体はどんどん年をとる。時々、現在に戻ってもくたくたに疲れて何もできないんです。「年取りたくない」というのは、今を生きてないからです。今、やるべきことやって来なかったからです。だから、未練たらたらで死ななければいけなくなる。現在だったら、現在を生きていないといけない。状況が変わったからといって、困った困ったと悩むことはありません。仏道を歩むとその瞬間から、幸福になるのです。

自分に本来ついている能力を取り戻すことです。「落とし物」を拾ってほしい。自分が落としたものですから、自分で拾わないと。そうして、人間が達するべき境地、「解脱・悟り」までで到達することができるのです。人間のレベルを乗り越えることが瞑想です。

ただ「人間に戻った」だけでは修行の終わりではありません。人間を乗り越えるのが修行の完成です。過去は死体です。処分すべきものです。抱きたければ、生きている人を抱いてください。悪臭を放つ過去を抱くものではないのです。

(2008年3月20日ゴータミー精舎での法話より メモ文責:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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